水の中の音色








 例えば、僕が詩人だったとしても「暑い」以外の形容ができないような、それはそんな暑い暑い夏の日のことだった。僕がやってきたのはいかにも都会の真ん中で、山や田んぼがないどころか庭さえない景色に、今更ながら驚愕した。
 叔父さんに「夏休みの間ウチでアルバイトしないか」と言われ、貧乏学生の僕は二つ返事で承諾してしまった。が、 “ど”が付くほどの田舎で想像していた僕の中での“都会”と、実際にこの目で見る“都会”とのあまりの違いに、僕は来て早々帰りたい気分に駆られていた。
 四時間電車に揺られてここに着いたばかりで疲れてはいたが、僕はさっそく鉢植えを買いに出かけた。叔父さんに用意してもらった僕の部屋に、せめてひとつだけでも緑を置きたい。そうしなければ、どうにかなってしまいそうだ。

 叔父さんに教えてもらった花屋へ向かう。もう日は蔭り始めているのに、やけに暑い。大通りに出ると、人の往来は一層激しくなった。足早に通り過ぎていく人々に塗れて、僕は連れがいるわけでもないのに置いていかれたような気分になる。なんだか頭がくらくらする。今にも倒れそうだ。

 ・・・と、そのとき。

 誰かに手を差し伸べられたような気がして、僕は救われた気分で顔を上げた。僕の耳に入ってきたのは、ピアノの音・・・。僕はふと上を見上げた。大きな建物に囲まれて、狭苦しそうに建っている白い建物の二階。そこには小さな窓がある。その向こうで誰かがピアノを弾いている。僕はそのピアノの音に耳を傾けた。
 なんて楽しそうに弾くんだろう・・・。窓越しでぼんやりとしか見えないのに、僕はそう思った。それほど上手いわけではない。だけど、とても楽しそうに・・・。
 僕は目を閉じる。大きな窓が見える。白いカーテンが風に揺れる。何もない部屋の真ん中に、グランドピアノがあって、白いドレスを着た女の人がピアノを弾いている。水の音・・・。水の音が聴こえる。こんなに暑い日なのに、水の中にいるように心地よい。僕は溺れていく。水の音のような、ピアノの音に・・・。

 誰かが僕の肩にぶつかって、僕は我に返った。人ごみの中にいたことに気付かされる。僕は白い建物を見上げた。そこにはもう、誰もいなかった。

「花買いに行ったんじゃなかったのか?」
 手ぶらで帰ってきた僕を見て、叔父さんは首をかしげた。
「あぁ・・・、そういえば・・・」
 ピアノの音が聴こえなくなったあとそのまま引き返してきたことに気付いて、僕は間抜けな返答をしてしまった。僕はすぐに、叔父さんに例のピアノのことを訊いてみた。
「白い建物?そんなのあったかなぁ。まぁ何にしろ、そんな密集地帯でピアノなんか弾いてたら迷惑だろ。・・・いや、逆かな。そんなところでピアノなんか弾いてたって、誰も気付いちゃくれないよ」
 誰も、気付かないピアノの音・・・。だけど僕は確かに聴いた。あのとき、溢れかえる人ごみの中、僕を救ってくれたのはあのピアノの音だった。澄んだ水の音のような、ピアノの音。

 次の日。昼休みになるとすぐに、僕はあの白い建物に向かった。アルバイト初日からなんだか上の空でミスばかりの僕に、叔父さんは怒りを通り越して呆れていたが・・・。とにかくこのままでは、アルバイトどころではない。たった一度聴いただけのピアノに、僕は魅入られてしまったのか・・・。それとも?

 人ごみと暑さに邪魔されながらも、白い建物にはすぐに辿り着けた。ピアノの音が聴こえてきたからだ。大通りに出てからずっと、僕の耳にはピアノの音が聴こえていた。まるで、僕を誘っているかのように。
 白い建物の前に立つ。小さな窓からは、ピアノを弾く誰かが見える。僕は、今度は人にぶつからないように白い建物の壁に背中をくっつけると、目を閉じた。閉じた瞳の奥に見えてくる。白いカーテン、グランドピアノ、女の人。そして、水の音。
 僕はふと目を開けた。目の前には、足早に通り過ぎていく、人、人、人・・・。
 どうして気付かないんだろう。こんなに素敵な音色に。こんなに楽しそうに響く音に。そんなに大切なことなの?あなたたちが今やろうとしていることは。周りを見る余裕もないほどに?誰かにぶつかっても、それでも歩いていかなければならないほどに?ねぇ、どうして?どうして気付かないの?
『どうして気付いてくれないの?』
 そのとき、僕の頭の中に、誰かの声が響いてきた。
「・・・え?」
『あなたなら、気付いてくれるんでしょ?早く気付いて』
 僕は驚いて白い建物を見上げた。
 僕に・・・。僕に気付いてほしいって・・・。
 白い窓の向こうには誰もいなかった。ピアノの音も、いつの間にか消えていた。

 ここへ来て3日目。僕の心の中に、『帰りたい』という思いはもうなかった。僕の心にあるのは、ひとつだけ。

 ピアノ・・・。

『どうして気付いてくれないの?』
 確かにそう言ったのだ。だから。
 僕は今日も、あの建物に向かっていた。ピアノの音が聴こえてくる。僕だけに聴こえている、ピアノの音。僕は、白い建物の前に立った。ピアノを弾く人影・・・。
「ねぇ、僕に何を気付いてほしいの?」
 僕は人影に向かって叫んだ。
「僕を救ってくれたのは君のそのピアノの音だった。だから僕は、今度は君を救ってあげたいんだよ。だから、教えてよ。何を気付いてほしい?」
 ピアノを弾く人影が、こちらを向く気配はなかった。ただ楽しそうにピアノを弾く様子だけが浮かんでくる。
 僕は、目を閉じた。
 あの日。初めてここへ来たあの日。僕は・・・。
 緑のない景色に驚愕した。それで、少しでも僕の周りに緑を置こうと鉢植えを買いに出かけて、でも人ごみにのまれて・・・。

 ・・・もしかして・・・。

 僕は、白い建物のドアを勢いよく開けた。ドアは、僕を待っていたかのようにすんなりと開いた。僕は、階段に向かって駆け出した。階段を飛ばし飛ばしに上る。ピアノの音が、大きくなってくる。僕は、ひとつのドアの前で立ち止まった。ピアノの音が聴こえる。この部屋だ。
 僕は、ドアをゆっくりと開ける。不思議と、躊躇いは無かった。

 ドアの向こうに、ピアノはなかった。何もない部屋。たったひとつ、僕の視線の先に映ったのは。

 向日葵。

 小さな窓の傍にあったのは、枯れかけた向日葵の鉢植えだった。今にも倒れてしまいそうで、だけど一生懸命太陽の方を向こうとしている、向日葵。僕は向日葵に駆け寄ると、そっとその花に触れた。
 と、そのとき、何か不思議な感覚を覚えて、僕は振り返った。
 そこは、何もない部屋ではなかった。空のダンボール箱、ビニール袋に詰められた備品、埃を被った机。そして、白い建物はもはや白い建物ではなく、崩れかけた灰色の建物に変わっていた。少し前まで、誰かがいたのだろう。誰かが住んでいたのか、それとも会社だったのだろうか。とにかく、家主はここを去っていった。何もかも捨てて。最後まで、家主は大切にしていたのだろう。この向日葵を。ここを去らなくてはならない日がくるまで、ずっと。残された向日葵は、家主がいなくなったあとも伸びようとしていた。そして・・・。
「君だったんだね。僕に呼びかけていたのは」
 僕は向日葵に囁きかける。
「僕なら君のこと、大切にしてあげられるって。だから・・・」
 どこかから風が吹いてきたわけでもないのに、向日葵は少し揺れた。まるで、小さく頷いているかのように。

 向日葵は、叔父さんの家にある僕の部屋に運ばれた。
 だいぶ元気を取り戻して、一心に太陽の方を見ている。
 アルバイトが終わってこの花に種がついたら、家に持って帰ろう。緑がいっぱいの僕の田舎で、きっと来年はたくさんの向日葵が咲く。叔父さんにも少し分けてあげたら、花を咲かせてくれるだろうか。だけど、この街で咲く花は窮屈だから・・・。

 向日葵に水をやる。太陽の光を浴びて、向日葵は楽しそうに揺れる。楽しそうにピアノを弾くあの場面が蘇ってくる。
 目を閉じて耳を澄ますと、聴こえてくる。

 水の音のような、あのピアノの音・・・。





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