青空のかなた








 その木は、一緒に並んでいるほかの街路樹たちよりもひときわ高く、青空に手を伸ばしていました。
 「ブルースカイ」という看板が掲げられた小さな美容室の前。その大きな木の下には、木製の小さなベンチがひとつ。
 ここは、小さな小さな街。しかし今日もたくさんの人々が、この木の元へ訪れます。


~ある小さな一日~

「ふわぁ・・・」
 お巡りさんは、思わず大きなあくびをしました。
 ここは、小さな小さな街にある小さな小さな交番。ある春の日。穏やかな空気が流れています。事件が起こらないのは、平和な証拠。お巡りさんが暇になることはいいことなのでしょうが、「何か事件が起こらないかなぁ」なんて物騒なことを考えてしまうのは、やはり職業柄。
「ふわぁ・・・」
 お巡りさんがもう一度大きなあくびをしたときです。
「お巡りさん大変!ちょっと来て」
 突然の声に、お巡りさんは慌てて姿勢を正しました。小学生らしき子供が二人、お巡りさんを見上げています。
「どうしたんだい?」
「たくやとあっちゃんが、あっちでケンカしてるんだよ。早く来て」
 二人に手を引かれて、お巡りさんは慌てて交番を出て行きました。
 お巡りさんが連れられてきたところは、「ブルースカイ」と書いてある美容室の前でした。そこに、何人かの小学生が集まっていました。その真ん中には、泣いている女の子と、拗ねている男の子。
 お巡りさんはとりあえず、傍にいた子供に訊ねました。
「いったい何があったの?」
 すると、泣いている女の子の隣りにいた背の高い女の子が、お巡りさんを見つけて言いました。
「たくやくんが悪いんだよー。あっちゃんの悪口言ったんだもん」
 今度は、その向かいにいた男の子が言いました。
「違うよ。悪口なんか言ってないって、たくや言ってるじゃんか」
「そんなの嘘だよー。だってあっちゃんがそう言ったもん」
 男の子側と女の子側で、危うくケンカが始まりそうになったので、お巡りさんは慌てて子供たちの真ん中に入ると、この騒動の発端らしき「たくやくん」と「あっちゃん」に話を聞いてみることにしました。
 お巡りさんが何か言う前に、「あっちゃん」らしき女の子が泣きながら口を開きました。
「私がね、美容院で髪を結ってもらって出てきたら、たっくんが『おまえなんかあつこじゃない』って言うんだもん・・・」
「ほらやっぱりー」「たくやくんが悪いよー」「あっちゃんかわいそー」そんな声が、女の子側から飛んできたそのときです。
「だってあつこはもっとブスなんだぞ!!」
 「たくやくん」らしき男の子が叫びました。その瞬間、辺りがしーんと静まり返りました。しばらくの沈黙のあと、お巡りさんは思わず笑い出しました。
「何で笑うんだよー」
 「たくやくん」が膨れっ面で言いました。お巡りさんはなおも笑いながら「ごめんごめん」と言うと、今度は「あっちゃん」の方に向き直って言いました。
「泣かなくていいよあっちゃん、たっくんはねぇ、あっちゃんに、『可愛くなった』って言いたかっただけなんだから」
 「あっちゃん」が顔をあげました。途端に、回りにいた子供たちがわっとどよめきました。
「なーんだ、たくやくん、あっちゃんのことが好きなんだー」
「ち、違うよー」
 「たくやくん」は真っ赤になると、お巡りさんの背中をぐうの手でぽんと叩いて、それから走り出しました。
「あ、待ってよー」
 そのあとを、「あっちゃん」が急いで追いかけます。周りにいた子供たちも、二人のあとを追いかけて笑いながらお巡りさんの前を通り過ぎていきました。
 小さな小さな街で起こった、小さな小さな事件。お巡りさんは、なんだかとてもうれしくなりました。


~哲学者~

「シン!ほら早く!」
 高校生活最初の一日。新しい制服を着て、英樹は、弟の慎一郎の手を引きながら大股で歩いていきます。英樹と9歳離れた弟の慎一郎は、小学校に入ったばかり。英樹のお古の大きすぎるランドセルが、背中でカタカタと心地よい音を立てています。
 慎一郎を小学校に送り届けて、自分も早く高校へ行かなければなりません。英樹の歩調はどんどん早くなって、慎一郎は引きずられるように英樹のあとをついていきました。
 ちょうど、街の中にある大きな木までさしかかった時でした。「あっ!」と叫んで、慎一郎が突然英樹の手を離しました。そのまま、大きな木のところまで走っていくと、慎一郎はさっとしゃがみ込みました。
 英樹はため息をつくと、自分も木の下まで走っていきました。
「シン、遅刻するぞ!」
 そう言って慎一郎のランドセルを引っ張って立たせようとするのですが、慎一郎はしゃがみ込んだままです。
「おい、シン!」
 そう言って英樹が無理矢理慎一郎を連れていこうとしたときでした。
「・・・ねぇお兄ちゃん、どうしてアリって、木をするする登っていくのかなぁ」
 慎一郎が呟きました。英樹は、慎一郎の視線の先を覗き見ました。何匹かのアリが、木の幹をつたって上へ登っていきました。よじ登るでもなく、地面を歩くように。
 へぇ・・・、こいつも小学生になって、ちょっとは哲学的なこと考えるようになったんだ。
 そんなことを思いながら、英樹は小さな弟を微笑ましく見つめました。慎一郎はじっと、木の幹を見つめています。
「・・・そういえば、どうしてなんだろう」
 そしてしばらく経ったころ。学校へ行くことなどすっかり忘れて、一心に大きな木を見つめている英樹の姿がありました。


~探し物~

「いったーい!!」
 春の陽気に誘われて、ベンチで本を読みながら居眠りをしていた和也は、突然のベンチの揺れと大声にはっと目を覚ましました。一瞬、何が起こったのか分からずきょろきょろとあたりを見回してから、和也はようやく、ベンチの下に誰かいることに気付きました。
 頭をさすりながらベンチの下から出てきたのは、中学のセーラー服を着た女の子でした。女の子は和也の方を向くと、ぺろっと舌を出しました。
「ごめーん、起こしちゃった?」
 今の状況から、この女の子が自分の足元で何をやっていて、そして何が起こったのかなんとなく察することができた和也は、とりあえず女の子に訊ねました。
「大丈夫?」
「あ、うん、全然」
 そう言って女の子は、頭をぽんぽんとたたきました。
 なぜだか少し嫌な予感がした和也は、「それじゃ」と言ってその場を立ち去ろうとしました。そのとき、
「ねぇ、あなたも手伝ってよ」
 和也はぴくりと立ち止まりました。そして恐る恐る女の子の方へ向き直りました。
「いや、俺忙しいし・・・」
「でも寝てたじゃん」
 あっさりと否定されて、和也は仕方なくベンチに鞄を置きなおしました。
「で、何を探してるの?」
 すると女の子は、当然といった顔で和也の方を見ると言いました。
「おもしろいこと」
 和也はもう一度立ち去ろうとしました。が、今度は女の子に左の足首をつかまれてしまいました。女の子は、和也の足をつかんだまま、またベンチの下を探し始めました。
「私、最近変なのよね」
「・・・うん、見てれば十分分かる・・・」
 和也の呟きを無視して、女の子は続けました。
「小学生のころはね、なんか、何をやっても楽しくて、毎日が、ほら、なんていうんだっけ、じゅうじつ?そう、充実してたんだ。なのにね、中学に入ってから、なーんかおもしろいことがなくなっちゃったんだよねー。みんな大人になっちゃったっていうか」
 和也は、そういえば自分もそんなことを考えたことがあったような・・・と思いかけて、慌てて踏みとどまりました。
「で、私、考えたわけ。きっと私は、おもしろいことをどっかに落としてきちゃったんだよ。だからね、今、探してるの。分かる?」
「・・・え?・・・まあ・・・」
「じゃあ、一緒に探してくれるよね」
 和也は仕方なく、女の子の隣りにしゃがみこみました。もちろん、女の子と一緒に探し物をしようなどとは少しも思っていませんでした。ただ、女の子から逃げ出す隙を窺っていました。
 そのうち、ベンチの傍を、おばあさんが通りかかりました。おばあさんは和也たちを見つけると、訊ねました。
「何をやってるの?」
 女の子はすまして答えました。
「おもしろいことを探してるの」
「まあ、そりゃ大変。私も手伝うわ」
 そう言って、おばあさんはベンチの傍にしゃがみこみました。
「和也くんじゃない?」
 またしばらくすると、和也は誰かに声をかけられました。同じクラスの女の子二人でした。
「何やってんの、こんなとこで」
 和也はさすがに本当のことは言えず、とりあえずごまかしました。
「あ、コンタクト。この子が、コンタクト落としたって」
「ほんとにー?じゃあ私たちも探すの手伝ってあげるよ」
 女の子たちも、ベンチの下を探し始めました。
 それから、買い物帰りの主婦や、営業で出てきていたサラリーマン、学校帰りの小学生などが、ベンチの傍を通りかかりました。みんな、ベンチに群がっている奇妙な集団を見て訊ねます。
「何をしてるの?」
「コンタクト落としたって」
「私は財布って聞いたけど?」
「大変じゃない。手伝うわ」

 どれだけ時間が経ったでしょうか。女の子は、大きく背伸びをしようと立ち上がりました。そして周りを見回した女の子は驚きました。ベンチの周りには、いつのまにか、道がふさがるほどの人々が集まっていたのです。みんな一心に、しゃがみこんで何かを探しています。それがコンタクトなのか財布なのか、それとも「おもしろいこと」なのか・・・それは分かりませんでしたが、その光景を見た女の子は思わず吹き出しました。
 女の子は、隣りにいた和也を立たせると、言いました。
「ねえ、なんだか、探し物が見つかったような気がしない?」
 和也も周りを見回して、少し苦笑いしながら言いました。
「そうかもね」


~大好きな人~

 早紀は、たとえば由美が髪を切ったとき、
「失恋でもしたの?」
「違うよ」
「失恋する相手がいないもんね」
 そんなことを言う人でした。
 悲しいことがあったとき、
「悲しいときに泣くのは簡単なことだけど、でも笑ってたらきっと、またいいことがある」
 そう言って、二人で泣く代わりに、二人で笑っていた・・・由美と早紀はそんな仲でした。
 早紀が地元から離れた高校へ行くことになり、
「私はあなたが必要だし、あなたも私を必要だと思ってくれるなら、それだけでいい」
 そう言って、由美と早紀はお別れをしました。
 あれから7年、由美はもうすぐ大学を卒業します。髪を切ったら「失恋?」なんて訊かれる、そんな時代も過ぎ去っていきました。早紀も今ごろ、由美と同じように大学生をやっているのか、それともどこかで働いているのか・・・。
 というのも、中学を卒業してから、由美と早紀とは一度も会っていません。手紙も書いていないし、電話もしていません。由美と早紀とは、そういう仲なのです。お互いに、お互いの生活の中には少しも入ってきていません。それでもなぜだか、いつも一緒にいるような、そして、お互いのことをいちばんよく分かっているような、由美と早紀とは、そういう仲でした。
 大学に入って、由美には好きな人ができました。彼も由美のことを好きでいてくれて、彼となら結婚してもいいとさえ思っていた・・・そんな人ができました。
 由美は今、彼の家の前にいます。彼は写真の中で、静かに笑っていました。この日、由美は彼の両親に初めて会いました。
「あなたのことはよく聞かされたわ」
 そう言って、彼の母親は涙を流しました。
 着慣れない黒い服に身を包んだまま、由美はどこか知らない場所に旅立ってしまおうと思いました。彼との思い出をすべて、消してしまおうと思いました。
 いつもとは違う電車に乗って、いつもとは違う駅で降りると、由美は並木道を歩き出しました。
 ふと気付くと、そこに、ひときわ目立つ大きな木がありました。その木の前に、「ブルースカイ」と書かれた小さな美容室を見つけ、由美は吸い込まれるようにそこへ入りました。
「いらっしゃいませ」
 どこか聞き覚えのある声が聴こえてきました。
「こちらへどうぞ」
 由美は黙って、鏡の前に座りました。
「ばっさり切ってください」
 由美は一言だけ呟きました。美容室にいた声の主は、由美の髪を優しくなでながら、そっと由美に問いかけました。
「失恋でもしたの?」
「・・・まあね」
「失恋する相手、できたんだね」
 二人は、それからずっと笑っていました。いつまでも、いつまでも、二人で笑っていました。


~あなたに逢えたら~

「お母さん、あったよ!」
 木の幹を指差しながら、中学生くらいの女の子が大声を上げました。
「信じられないわ、まだ残っていたなんて・・・」
 お母さんと呼ばれた女の人は、木の幹を手でさすりました。女の人の目に、何か光って落ちてゆくものがありました。

「ねぇ、ほんとにいいの?こんなところに」
「大丈夫だって。見つからないよ絶対」
 美佐子の問いに、隆司は笑って答えました。
 美佐子と隆司、中学1年生の冬。今、彼らは、街の中に生えている大きな木の幹に、自分たちの名前を彫っているのです。
「そうじゃなくてさぁ、この木、こんなことしたら痛いんじゃないの?」
 言われて隆司の手が一瞬止まりました。
「そうなのかなぁ・・・」
 隆司は少し考え込んでいましたが、突然顔の前で“パンッ”と手を合わせました。
「どうか僕と美佐ちゃんのためと思って許してください!」
 それを見ていた美佐子も、慌てて隆司の隣りに並びました。
「許してください!」
「よぉしっ、書くぞ!」
 二人はまた、名前を彫り始めました。
 実は、もうすぐ、美佐子が親の仕事の都合で引っ越すことになったのです。それで、二人はある約束をしました。
「私、こっちの高校受けて、絶対帰ってくるからね」
 高校生になったら、この木の下でまた会おう。そんな約束。そして、この木に彫った名前は、その約束の証なのです。
 名前を書き終えた二人は、大きな木を見上げました。
「この木、ずっとなくならないといいね」
「うん・・・」
 握り合った二人の手は、少し震えていました。

「・・・でもね、結局、約束を果たすことはできなかったの。お母さんがこっちに戻ってきたのは、社会人になってからだったなぁ」
 木の下のベンチに腰掛けて、女の人は呟きました。
「そうなんだ。じゃあ、その人とはもう・・・」
 木の幹に彫ってある名前を見つめていた女の子が、ふと訊ねました。
「ねえ、これ、お母さんの名前しか書いてないけど、相手の人の名前は?」
「それなら、その名前のちょうど反対側。そこに、残ってるんじゃないかしら」
 言われて幹の反対側へ回りながら、女の子がまた訊ねます。
「その人の名前、覚えてる?」
「さあね、どうかしら」
 はにかみながらそう言った女の人の顔が、少しだけ赤くなりました。
「あ、その顔は、覚えてるんでしょ。どんな人だった・・・」
 女の子の声が途切れました。
 風に木の葉がふわりと揺れて、その陰に隠れていた名前が浮かびあがりました。
「・・・お父さんだ・・・」
 風に乗って、大きな木は、少し微笑んだように見えました。


~さよなら~

 その日は、雨が降っていました。

「おかしいよね。濡れててベンチにも座れないよ」
 亜衣はそう言って、赤い傘の下で笑いました。
「ゆっくり、最後の話もできないなんてね」
 黒い傘の下で、啓介も笑いました。
「ぴったりのシチュエーションだと思わないか。こういうのどう?俺は何も言わずに去っていくんだよ。おまえは傘を放り投げて雨でずぶぬれになりながら、俺の後ろ姿に向かって『行かないで!』って叫ぶ。ドラマみたいでよくない?」
 からかうように、啓介が言いました。
「いやよそんなの。自分だけかっこつけちゃって。私に何のメリットもないじゃないの」
 亜衣がまた笑いました。
 周りから見たらきっと、二人は仲のよい恋人同士に見えたことでしょう。二人の間には、とても穏やかな空気が流れていました。
 ふいに、亜衣が言いました。
「私が悪いわけじゃないし、あなたが悪いわけでもない。ただ、あなたは私の運命の人じゃなかった」
 啓介も頷きました。
「そう、そしておまえも、俺の運命の人じゃなかった」
「きっと、すぐに出会えるわ。本当の、運命の人に・・・。元気でね」
「おまえもな」
 二人はお互いに、やわらかな笑顔で相手を見つめました。
「・・・それじゃ」
「・・・うん」
 啓介の頬に、亜衣の唇がそっと触れました。啓介は笑って亜衣に背中を向けると、ゆっくり、ゆっくりと、亜衣の元から遠ざかっていきました。
 啓介が見えなくなってしまうころ、亜衣の手から、赤い傘が滑り落ちました。
「行かないで・・・か・・・」
 亜衣は呟きました。亜衣の目から、涙の雫が零れ落ちたように思えました。
 しかしあるいは、それはただの雨の雫だったのかもしれません。


~夏の幻~

 大きな木の下の、木製の小さなベンチに、ちょっと太った中年のおじさんが座りました。会社の営業でもしている途中なのでしょうか。背広を着て、大きな鞄を持っています。
 おじさんは、ふうっとため息をつきながら、ハンカチで額の汗を拭いました。
 ふいに、涼しい風が吹き抜けました。そして、風と共に、優しい歌声が聴こえてきました。
『部屋の窓の向こうに 飛行機雲を なぞって・・・』
 声と共に、白いワンピースを着た高校生くらいの女の子が歩いてきました。歌いながら大きな木の前まで行くと、女の子はくるりとおじさんの方へ振り返りました。
「・・・こうちゃん」
 そう言って、女の子はおじさんに笑いかけました。おじさんはぽかんと女の子を見上げました。
「覚えてるわけ、ないよね。だって、もう30年も前のことだもん」
 おじさんは黙ったままです。
「とても仲良しだったのにね。私がもしあのとき事故に遭わなかったら、今ごろ私たち、どうなってたのかな・・・」
 言われておじさんは呟きました。
「・・・友香?」
 名前を呼ばれて、女の子は笑いながら頷きました。
「思い出してくれた?」
 それから、友香はそっと呟きました。
「こうちゃんのこと、見てたよ。ずっと・・・」
 また、涼しい風が吹き抜けました。
 友香は、そのままおじさんの隣りに腰掛けました。
「ずっと見てたんだ。結婚したことも、事業に失敗しちゃったことも、それから、最近ちょっと太っちゃったこともね」
 そう言って友香はまた笑いました。おじさんは、友香の方をじっと見つめたまま、動きません。
「忘れられてもいいと思ってたの。こうちゃんの中で、私が幻になっても、それでもいいと思ってた。こうちゃんが幸せでいてくれるなら、それでいいって思ってた」
 友香は俯きました。しばらく友香は黙ったままでしたが、また、おじさんの方を振り返りました。
「私、今度生まれ変わることになったの。そしたら急に、淋しくなっちゃった。こうちゃんの中から、私はいなくなって、今度は私の中からもこうちゃんがいなくなろうとしてる。私とこうちゃんとの思い出が、全部消えてっちゃう。そう思ったら、淋しくなっちゃったの。だから、せめて私は、こうちゃんの中で生きてやろうって、そう思ったの。だから会いに来ちゃった」
 おじさんは、まだ何も言いません。友香は立ち上がりました。
「ごめんねこうちゃん。私の勝手な我侭で、こんなとこまで来たりして、ごめん。もう、会うこともないから。幸せに、なってね・・・」
 そう言って友香は笑うと、おじさんにくるりと背を向けました。
 そのとき、今まで黙っていたおじさんが、口を開きました。
「俺は、友香のこと忘れたことなんて一度もないぞ」
 友香は振り返りました。おじさんが、立ち上がりました。
「そりゃ、突然目の前に現れたりするから、びっくりはしたさ。まさかそんなことあるかって思って、何も言えなかった。けど、俺の中で、友香は幻になんかなってないぞ。ずっとずっと、俺の大切な人だから」
「・・・こうちゃん」
「こんなふうに出てこなくたってな、俺はおまえのこと忘れたりしないから。だから安心して新しい人生送るんだぞ」
 そう言って、おじさんは笑いました。友香も、おじさんの方を見て笑いました。
「ありがとう」
 友香はおじさんに背を向けると、ゆっくりと歩き出しました。涼しい風と共に、優しい歌声が聴こえてきました。
『夏の幻 瞳閉じて 一番最初に君を思い出すよ・・・』
 友香の姿が、だんだん薄くなって、やがて消えていきました。
 何事もなかったかのように、夏色の制服を着た高校生が二人、笑いながら駆けていきました。
『忘れないから 消えゆく命(まぼろし)に 君と並んでいたね・・・』
(文中の歌詞はGARNET CROW「夏の幻」より引用)


~コール~

 その男の人は、持っていた画材をベンチにいっぱい広げました。そして、その真ん中にどっかりと座ると、自分の前に大きなキャンバスを置きました。
 男の人が向いた方には、葉が茶色に変わった大きな木があります。秋になって、少し冷たい風が吹くようになりました。歩道には赤や黄色の葉で絨毯が出来はじめています。
 男の人はおもむろに一本の筆を取ると、キャンバスに大きな木の絵を描き始めました。
 そのうち、小さな猫がやってきて、木の根元にちょこんと座ると、昼寝を始めました。でも、男の人はいっこうに気にする様子もなく、黙々と絵を描いています。
 それから、木の枝に、小鳥が止まりました。それでも男の人は、黙々と絵を描いています。
 今度は、自転車に乗っていたおじさんが、前を歩いていた小学生に危うくぶつかりそうになって、木の傍でキキーッと大きな音をたてました。男の人は、それでも絵を描きつづけています。
 それからまたしばらく経って、
「ごめん、遅くなって」
 男の人の背後から、女の人の声がしました。女の人は、男の人の肩をぽんと叩きました。それなのにまだ、男の人は絵を描いています。
 女の人は、ふぅっとため息をつくと、ちょっと苦笑いしました。それからしばらく、女の人は男の人の周りをぐるぐる回っていましたが、ふと、キャンバスの方に目をやりました。
 するとそこには、男の人が描いているはずの木のほかに、猫や小鳥、自転車や小学生などが、ごちゃ混ぜになって描いてありました。
「なるほどね」
 女の人は呟くと、大きな木の下にしゃがみ込んで男の人のほうを見つめました。そしてしばらくしてから、何事もなかったかのように鼻歌を歌いながら帰っていきました。
 これから何時間かして、この男の人が完成した絵を見たとき、きっとびっくりすることでしょう。いつのまにか描いてしまっていた猫や小鳥・・・。その中に、あの女の人も混ざっているはずですから。
 そして、男の人はきっと、すぐに女の人に電話をかけて彼女に謝るでしょう。彼は、彼女のことが大好きですから。
 女の人はそれを聞いて、「これで5回目」なんて言いながら、笑って彼を許してあげるのでしょう。
 彼女もまた、そんな彼が大好きなのですから・・・。


~コトバ~

 その人は作家でした。
 最近やっと、念願だった「小説を書くこと」を仕事にできた、新人の作家でした。
 作家は毎日、いろいろなところを歩き回っては、何かしら小説の題材になるものを探してきます。そして、机に向かうと、いくつもいくつも、小説を書きつづけるのです。
 ずっとやりたかった仕事に就けたのですから、作家は夢中でした。夢中で小説を書きつづけました。だから、素敵なお話がだんだん増えていきました。そのうち、作家が書いた小説が、どんどん売れるようになりました。作家はうれしくて、またどんどん小説を書きつづけました。
 しかし、自分の異変に気付き始めたのは、そのころからでした。
 小説を書いて、素敵な言葉を使えば使うほど、作家の口から出てくる言葉は、汚い言葉ばかりになってきたのです。素敵な作品が書ける代わりに、作家は素敵な言葉たちを失っていったのです。
 そしてある日、作家はとうとう、恋人と大喧嘩をしてしまいました。こんなことを言うつもりはないのに、口から出てくるのは彼女の悪口ばかり。彼女は怒って、作家の元から去っていってしまいました。
 作家はそれから、毎日街に出てはみるものの、小説の題材になるものは何一つ見つけてきませんでした。何もせず、ただ、毎日家の近くにあるベンチに座って、考え事をしていました。
 作家はベンチに寝転がりました。視線の先には大きな木があって、茶色に染まった葉がひらひらと舞い降りてきます。そのまた視線の先には、雲ひとつない、吸い込まれそうな青空が広がっていました。
 作家は、舞い降りてきた葉を空にかざすと、思いました。
 僕はこの世界でなんて小さいんだろう・・・。
 そして、作家が体を起こしたそのときでした。
 向こうから、歩いてくる人影が見えました。それは、喧嘩してしまった恋人でした。
 作家は立ち上がりました。向こうも、作家を見つけると立ち止まりました。
 作家は、何とかして、彼女に一言謝ろうと思いました。作家は彼女に近づくと、口を開きました。「ごめんなさい」、それだけ言いたくて。
 しかし作家の口から出てきた言葉は、彼女の悪口ばかりでした。
 作家は悲しくなりました。作家の目から、涙が溢れました。いくつもいくつも涙の雫が零れ落ちていきました。
 そのときでした。作家は、なんだかとても優しいものに、ふわりと包まれました。恋人は、何も言いませんでした。ただ、作家を、優しく抱きしめてくれました。作家は、彼女の腕の中で泣いていました。いつまでも、いつまでも、泣いていました。
 それから、作家は、何も言いません。小説も書きません。それでも作家は幸せです。大好きな人と、ずっとずっと仲良しでいられるのなら・・・。


~手紙~

 郵便屋さんには、気になっている人がいました。

 朝七時。郵便屋さんは車に乗って、ポストに入れられた手紙の回収に行きます。その途中に、ひときわ目立つ大きな街路樹があって、その下には、木製の小さなベンチが置いてあります。最近そこに、いつも決まって、おばあさんが座っているのです。
 このおばあさんは、郵便屋さんの知っている人でした。郵便屋さんがおばあさんの家に手紙を届けに行くと、いつも決まって、縁側におじいさんと二人、並んで座っていて、手紙を手渡すと、ふわりと笑いかけてくれるのです。それだけで、郵便屋さんの心はとても暖かくなりました。それが二年程前から、ぱったりと姿を見かけなくなりました。おじいさんが亡くなったと人づてに聞いたのは、そのすぐ後のことでした。
 そのおばあさんを、ベンチで見かけるようになったのです。
 おばあさんは何をするということもなく、毎朝じっと空を見つめていました。郵便屋さんは何度も声をかけようとしましたが、なんだかおばあさんの周りの空気を壊してはいけないような気がして、声をかけられないでいました。
 だけど今日、郵便屋さんは、思い切って彼女に声をかけてみることにしました。それは、ポストに入っていた手紙の量がいつもより多い気がしたせいかもしれないし、雪の降りそうな澄んだ空気が辺りに漂っていたせいかもしれません。
「おばあさん」
 郵便屋さんは、仕事中でしたが、車を道の脇に止め、おばあさんに声をかけました。なんと言っていいのかわからず、震えながら口に出したその言葉は、澄んだ空気に広がって、響いたように思えました。
「まあ、いつもの郵便屋さんね」
 おばあさんは、郵便屋さんの方を振り返ると、あの頃のようにふわりと笑いかけてくれました。郵便屋さんは心が暖かくなっていくのを感じました。
「いつもここに座っていらっしゃるんですね」
 するとおばあさんは、青空のはるかかなたを見つめながら言いました。
「私、自分は雲なんじゃないかと思うんですよ」
「雲・・・ですか?」
 郵便屋さんも、おばあさんと同じように空を見上げました。
「おじいさんとよく話してたんです。私はいつもふわふわしていて、なんだか雲みたいだって。最近、本当にそうなんじゃないかと思うようになってきたんですよ」
 そしておばあさんは、ぽつりと呟きました。
「もうそろそろ、空に帰ってもいいんじゃないかしら」
「え・・・?」
 郵便屋さんは、思わずおばあさんを見つめました。
「おじいさんが亡くなって、二年が経ちました。もうそろそろ、おじいさんからお手紙が届く頃かもしれませんね。『おばあさんも空へ帰っておいで』って」
 そう言うとおばあさんは、また郵便屋さんにふわりと笑いかけました。郵便屋さんは、何も言葉を返すことができませんでした。暖かかったおばあさんの笑顔が、とても淋しそうに見えて、郵便屋さんはおばあさんからそっと顔を背けると、空を見上げました。

 雪の降る、寒い朝のことでした。いつものように郵便屋さんは、ポストの中の手紙を車に乗せると、自分も車に乗り込もうとしました。
 と、そのとき、どこからきたのか、はらはらと舞い降りてくる雪とともに、白い封筒が舞い降りてきました。
 郵便屋さんは、それを拾い上げました。
 見ると、それは、あのおばあさん宛ての手紙でした。郵便屋さんは何となく、その封筒を裏返してみました。裏に書いてあった差出人の名は、・・・おじいさんのものでした。
 郵便屋さんはふと、あのときのおばあさんの言葉を思い出しました。
「もうそろそろ、おじいさんからお手紙が届く頃かもしれませんね。『おばあさんも空へ帰っておいで』って」
 郵便屋さんは、どうしても、それを届けようという気にはなれませんでした。
 郵便屋さんは、しばらくその手紙をじっと見つめていました。佇んでいる郵便屋さんに、白い雪は降りそそぎ、封筒の表に書いてあるおばあさんの名前が、少しにじんだようでした。やがて郵便屋さんは、上着のポケットにそれをねじ込むと、逃げるようにその場を去りました。

 おばあさんは今日も、あのベンチに座って空を見上げています。


~最後の一葉~

「まだ残ってるねぇ」
 早紀は、美容室の窓から大きな木を見て言いました。
 ここは、「ブルースカイ」という美容室。早紀はここで美容師をしています。この美容室の窓から、大きな木が見えます。すっかり葉が落ちてしまったはずの木に、まだ一枚だけ、残っている葉があるのです。早紀は毎日、その葉を見ては、「頑張って」と声をかけていました。
 今日はクリスマスイヴ。でも、いつも通り、早紀は仕事をしています。
「早紀ちゃん悪いね。彼とデートの約束でもあったんじゃない?」
 常連のお客さんが尋ねました。
「そんな人がいたら、今ごろ奥さんの髪切ってることもないんでしょうけどね。全然ダメなんですよ私」
 そう言ってちょっと笑ってから、また早紀は窓の外を見つめて言いました。
「頑張って」

 その夜。仕事の片付けを終えて早紀が外に出ると、いつのまにか外は一面まっ白な雪に覆われていました。早紀の前を、何組かのカップルが通り過ぎていきました。
「こんな素敵なイヴの夜にひとりぼっちとは・・・」
 早紀はひとり、ため息をつきました。大きな木の下のベンチが空いていたので、早紀はそこに腰掛けると、雪が舞い降りてくる空を見上げました。
「・・・そうだ」
 早紀は、歩道に少し積もった雪をかき集めると、小さな雪だるまを作りました。ポケットに入っていたボタンをふたつつけて目にすると、なんとなく可愛らしい雪だるまが出来上がりました。早紀は雪だるまをベンチの上にちょこんと座らせました。
「うん。我ながら上出来。あとは・・・」
 そう言って、早紀が、鞄の中を探ろうとしたときでした。
「早紀ちゃん」
 どこかから、呼んでいる声がしました。
「・・・誰?」
「僕」
 その一瞬のことでした。積もっていた雪がふわりと舞い上がったかと思うと、今まで雪だるまが座っていたはずのところにいたのは、背の高い青年だったのです。
「いつも応援してくれるお礼に」
 そう言って、青年は指をぱちんと鳴らしました。すると、大きな木が、たちまち大きなもみの木に変わったのです。さらに青年が指を鳴らすと、もみの木にたくさんの飾りがついて、綺麗なクリスマスツリーになりました。
「今宵は僕と一緒に、イヴの夜を過ごしてくれませんか?」
 そう言って青年は、早紀に右手を差し出しました。
 これまでの様子をぽかんと見つめていた早紀は、はっと我に返ると青年を見つめました。青年も、早紀の方を見つめてにっこり笑いました。青年の瞳に吸い込まれるように、早紀は青年の手を取りました。
 二人はベンチに座ると、クリスマスツリーになった大きな木を見上げました。
「綺麗・・・」
 青年がぱちんと指を鳴らす度、様々なものが二人を包み込みました。七色に輝く星々や、天使たちの歌声・・・。二人は、とても素敵なイヴの夜を過ごしました。
 しかし、時計の針が12時を指そうとしたとき、
「もう、行かなくちゃ・・・」
 青年が言いました。二人はクリスマスツリーの下に立つと、ツリーを見上げました。
「楽しかったよ。ありがとう」
「そんな。私の方こそ。こんな素敵なイヴをありがとう。楽しかった。ほんとに楽しかった。・・・でも、もう会えないの?」
 早紀がそう言った瞬間でした。12時を知らせる鐘が鳴り響きました。ふわりと雪が舞い上がりました。青年は早紀に笑いかけました。そして、雪に包まれて消えていきました。
 すべてはまた元に戻っていました。雪だるまはベンチの上にちょこんと座っていて、クリスマスツリーは、元の裸の木になっていました。
 そのとき、早紀の目の前に、小さな葉が一枚、ひらひらと舞い降りてきました。それは、大きな木に残っていた最後の一葉でした。
「シンデレラみたいだね」
 早紀はそう言って笑うと、最後の一葉をそっと、雪だるまにさしておきました。

 次の日。早紀はいつものように美容室にやって来ました。昨日のことは、すべて幻のように思えました。ふと、ベンチを見ると、雪だるまはもう、溶けてなくなっていました。あとに、早紀がつけたボタンふたつと、あの一枚の葉だけが残っていました。
 早紀は、ふうっとため息をつくと、美容室へ入ろうとしました。と、そのとき、雪だるまを見た視界の向こう、大きな木の下に、誰かが立っているのが見えました。早紀がその人の方を見ると、一生懸命手に息を吹きかけて温めていたその人が、まっすぐ早紀のほうへ駆けてきました。早紀は驚きました。その人は、昨日の青年にそっくりだったのです。
 その人は、早紀の前に立つと、言いました。
「突然すみません。でも、どうしても言いたくて。・・・僕、ずっとあなたのことを見てました。声をかけようとしたけど、勇気がなくて。でも、今日やっと決心したんです。・・・僕、あなたのことが好きです。僕と、お付き合いしていただけませんか?」
 早紀はにっこりと笑って、それから右手を差し出すと言いました。
「メリークリスマス」


~エピローグ~

 季節は巡って、また、新しい春がやって来ました。今年もきっと、この大きな木の元へ、たくさんの人たちが訪れることでしょう。
 去年と同じように木々は芽吹き、野の花は咲き、街は春一色に染まることでしょう。
 いつもと変わらない風景・・・。でも、去年よりひとつ大人になった人たち、そして、新しく生まれた生命たちが、この木の元へやってくるのでしょう。
 大きな街路樹は、世界を包み込む青空のように、いつまでも、いつまでも、この小さな小さな街を見守りつづけることでしょう。いつまでも、いつまでも・・・。





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まとめ